給水塔からずっと

家のたっている、この小高い山のてっぺんの辺りを上空から見ると、おそらく十字形に見える変わった形をした古墳のような給水塔が立っていて、今日はその近くまで歩いた。
もちろん息子を乗せたベビーカーを押して。
頂上まで700メートルくらい歩いて行き、その給水塔を目の前にして改めて思う。
これはとても変な建造物だなと。
今の文明が滅びて、何かの間違いでこの物体だけがここに残ってしまった場合、未来の人々はこれを何と解釈するのだろうか?

今、あるものを見て、未来の人が何を考えるのかというのが、今の自分の中での流行です。
この時、未来というのは5年とか10年先でも良いし、100年、200年先でも良いんだけど、この想像はすごく面白い。
同じように過去に在ったものや、ものの考え方を、今の自分がどう思うのか、というのもよく考えます。
落語では、よく噺に入る前の「まくら」で、これからするネタの時代背景を語ってくれることがあるんだけど、そうすると、ぐっと噺に入って行けるようになったり、逆に、それをしてもらえないと噺の大事な部分が読み取れなかったりします。
噺家はそうやって時間を引き寄せて、僕らを噺の世界へ導入して行ってくれる。
僕はその時に、今の常識とのズレが大きいほど面白いなぁと思う。
「だから君は、10年先だったらとか、100年前だったらとか考えるようになったのかね?」と誰かに尋ねられたならば、「はいっ!そうであります!」と答えるのであります。

話は戻って、このおかしな建造物の周辺には団地が建っていて、どの家にも洗濯物が掛かっているのに、人の姿が見えず、声も全くしない。時々、猫が建物の隙間から現れて、後ろ足で耳の後を掻いているのが見えるくらいだ。風で木の葉が擦れて起こる、ざわざわざわという音が、耳に届く一番大きな音です。息子のなっちろが時々、オードリーの春日のような感じに「へっ!」と奇声をあげると、沈黙した周囲の空気に吸い取られてしまいました。